This Side of Paradise 『楽園のこちら側』ー“それを失う喜びを繰り返したい”ー
たまたま、ちょっと失望することが続き、「失望する」ことを回避するには「期待しない」しかないのか、と寂しいことを考えたりした。人は機械ではないので、感情から逃げるのは難しいが、ひとつ有効だと思うのは、やはりすぐに「忘れる」ことかもしれない。それから、「鈍感力」・・・などなど考えているうちに、急に思い出したのが、F.スコット・フィッツジェラルドの処女作『楽園のこちら側』のとあるフレーズ。
“Youth is like having a big plate of candy. Sentimentalists think they want to be in the pure, simple state they were in before they ate the candy. They don't. They just want the fun of eating it all over again. The matron doesn't want to repeat her girlhood - she wants to repeat her honeymoon. I don't want to repeat my innocence. I want the pleasure of losing it again.”
「青春とは、皿にもられたキャンディを食べるようなものだ。感傷的な人は、キャンディを食べる前の、ピュアでシンプルな状態に戻りたいと思う。しかしそうではない。彼らは、それをもう一度食べる楽しみが欲しいのだ。既婚女性は、少女時代に戻りたいとは思わないー新婚旅行を繰り返したいと思うのだ。僕は自分の無垢(イノセンス)を繰り返したいとは思わない。それを失う喜びを繰り返したい。」
(翻訳書が行方不明なので、私のつたない訳で失礼致します)
フィッツジェラルドといえば、ゼルダという一人の女性を愛するあまり、彼女が彼の人生のほぼすべてのモチベーションになったという、女性からしたらおとぎ話に出てくるようなロマンチスト。ゼルダを得るために人気作家になり、奔放で我が儘な彼女の崩壊とともに自身も転落の人生を歩む。ついには自らを「失敗の権威」と評し、挫折と苦悩の中、最後まで気障に?生きて、44歳の短い生涯を閉じた。
『楽園のこちら側』はもともと『ロマンチック・エゴイスト』という題で、フィッツジェラルドの学生時代をモチーフとした自伝的要素の強い作品。面白いかといわれたら、個人的には、それよりもフィッツジェラルドの世界観に浸るための最高の一冊、だと評したい。詩や戯曲スタイルなど、様々な表現手法を詰め込んだ本書は、ゼルダを得るために書いたというモチベーション含めて、文字通りのロマンチック・エゴイストが書いたとんでもない作品である。
『グレート・ギャツビー』も、華やかだったころの彼とゼルダの日々が垣間見れる、そして何よりも、女性(ゼルダ)によって崩壊させられる男(フィッツジェラルド)の人生を象徴的に描いている作品だ。また、1920年代のアメリカー狂騒の時代の、華やかで虚無感に溢れた時代こそが、この作品の一番の魅力でもある。
"You are all lost generation." (「あなたたちは皆、”ロスト・ジェネレーション”なのよ」)と、ヘミングウエイにガートルード・スタインが言ったとか。これまたカッコイイ。ヘミングウエイは、フィッツジェラルドとともに「Lost generation(失われた世代)」の文学と言われる。
物語は、あまりに悲劇的な結末で、文字通り悲劇の主人公となるギャツビーがとにかく哀れで滑稽なのに、同時にどうしようもなく儚くて美しくも見えてしまうところが、フィッツジェラルド作品の真骨頂というか、彼が多くのセンチメンタリストを惹きつけてやまない所以だろう。
それにしてもね、「僕は自分の無垢を繰り返したいとは思わない。それを失う喜びを繰り返したい」ーなんてね、いったいぜんたいこんな気障で美しいフレーズ、どうやったら思いつくのか!
サグラダファミリアに「未完」の美学を見出す人もいれば、フィッツジェラルドのように「喪失」に惹かれる人もいる。人の美学というのも様々で、そう考えると途端に色々な人の「美学」に焦点を当ててみたくなってくる。
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ああ、フィッツジェラルドよ永遠に。ロマンチック・エゴイストの人生、ゼルダに振り回された一生だったとしても、それが彼のやりたいことであり、自身も十分にエゴに生きたのではないかなあ、と勝手に想像してみるのである・・・
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